東方紅月歌
 -The Fragments of Sealed Memory- 


第二章 契約 

 紅魔館日記 ○X△▲年○■月○▽日

 メイド。なんとわたしがメイドになってしまった。本当は『しもべ』だなんて言われたけれど、そんなに素直にハイソウデスカ、なんて言えないわ。メイドの方が聞こえもいいし。
 とにかく明日から頑張ろう。


お嬢様(←基本の呼び方!)はすでに300から400年ほど生きていると聞かされた。家族という言葉にはかなり反応されたけれど、どうやら相当長い間お一人でこの館に住んでいたらしい。
 わたしはお嬢様の新しい家族ですか?と聞いたら、
 ……百年早いわ。
 と言われた。何とも説得力のある一言だと感じたわね。


 改めて私の名前を聞くや否や、
 長い名前ね。今日からおまえは『ティア』よ
 ですって。確かに『クウィンティア』や『エルディーネ』なんて呼ぶのはつらいかもしれないけれど……


 朝起きて鏡を見たらあのときの傷跡がまだ残っていた。軽く触れてみるとあのときの恐怖と同時に光景が思い出される。
 う〜ん、それにしてもあの契約は……


  …………

「うぅ〜〜っ!今日もいい天気ね」

 あの恐怖体験から一夜が明けた。
 昨日の夜、紅い館から何とか我が家に帰還することができたティアだったが、帰った時にはすでに気力、体力ともに底をついていた。家に入るも着替える余裕すらなくなっていたため、そのまま真っ直ぐベッドに向かい、そして倒れこむようにして眠ってしまった。
 今朝起きたときには、まだ若干の疲れが残ってしまっていたが、体調は万全といっても良いくらいにまで回復していた。若いってすばらしい、そんな年寄りじみたことを考えて、一人クスクス笑う余裕があるくらいであった。
「今日もあの館に行ってみようかしらね。無茶なやり方ではあったけれど、一応、あの変なヤツから助けてくれたわけだし。直接会って、お礼の一言でも言っておくべきよね」
 たとえ相手がどんな者であろうとも、礼儀は守らねばならない。
 そう教えられたのはもうどれだけ昔のことだろうか。
 ティアは、やり方はどうだろうと思いつつも、自分を助けてくれた悪魔のような少女がいた館がある方を眺めた。
 視線の先には緑生い茂る森が見える。
 そこを抜けるとキラキラ輝く水面が綺麗な湖が広がっている。
 その先に紅く染まったあの館があるのだ。
 でも、館の名前はまだ知らない。そこには幼い少女悪魔が棲んでいる(ようだ)。当然、彼女の名前も知らない。まだまだ謎に満ちた館に思いを馳せ、ティアは出かける準備をすべく、家の中へと入っていった。

 ここ幻想郷において、妖怪に出会うことは日常茶飯事のようであるらしい。ぐるっと見渡せば、昨日見かけたような空飛ぶ妖怪が何匹も湖の上を行き来していた。その中にはかわいらしい姿をしたものもいたが、ティアにとってはこの際どれも同じに見えた。
「昨日みたいに湖の上を飛んでいたら、また襲われていたわね……」
 昨日の反省を活かし、紅い館からの帰り道として使った森の中を、妖怪たちに見つからないように慎重に進んで行った。もう妖怪と追いかけっこをするのは御免こうむりたい。そう願いながら、妖怪の叫び声にびくつくティアだった。
 森を抜けたその先で、昨日と変わらずそこにあり続ける館は今日も紅かった。しかし、改めて正門まで近づいて見てみると、その紅さは湖の対岸から見えた綺麗さとは打って変わって不気味でさえあった。まるで館全体が血で染められているかのようで、不気味の中にも狂気を感じさせる、そんな紅さだった。
「うう……なんだか急に寒気がしてきたわ。この館、大丈夫なのかしら……」
 正門から玄関へと真っ直ぐ延びる石畳を歩きながら辺りを見回してみると、改めてこの館というよりも敷地内全体が紅いことに気付いた。そして、ただ見ているだけで気分が悪くなってしまったティアは、たまらず駆け足で玄関へと向かった。そう言えば昨日もここを走ったなぁ、などと思いながら。
 そんなティアを見つめる一つの影があった。窓にひじをついて下の様子を見下ろす姿はどこか幼く、その顔には嘲笑うかのような笑みが浮かんでいた。

 駆け足後の呼吸の乱れも直ったところで、目の前にある大きな扉のドアノブに手をかけた。そして、
「お、お邪魔しま〜す……」
 細くて頼りないが、それでもずっと遠くまで聞こえる声を発しながら、ティアは扉をゆっくりと開いた。
 ギイィィィイイ……
 そんな古めかしい音とともに開かれた扉の先を見たティアは、その目の前に広がる光景に言葉を失った。

 紅かった。

 ただひたすらに紅かったのだ。外観に負けず劣らずといった具合に、内装も不気味な紅さを纏っていた。
 壁、廊下、階段、そしてカーテン……
 視界に入るそれらのほとんどが紅で統一されていた。紅くないのは階段の手すりと壁にかけられている絵画、そして生けてある花ぐらいだろうか。
「外観だけじゃなくて内装まで紅だなんて。また気分が悪くなりそう……」
 館全体から漂う狂気を孕んだ空気がティアに纏わり付く。ティアは深呼吸を何度かして自分を落ち着かせると、改めて辺りの様子を伺った。ところが、これだけ大きくて立派な館であるにもかかわらず、まったくと言っていいほど人の気配がしなかった。
 良く見れば、廊下に敷かれた紅い絨毯には白い埃がうっすらと積もっていたが、そこには何かの足跡のような丸い紅が規則正しく並んでいた。白くなった紅い絨毯に紅い足跡。ここには誰かがいる。これは間違いなかった。
「でも、本当にあの娘はここに棲んでいるのかしら?」
 この埃の積もった紅い館に不信を抱きつつ、玄関ロビーの真ん中まで進んだときだった。
 バタンッ!
「きゃっ!」
 後ろを振り返ると、明り取りも兼ねて開けておいたはずの扉が閉まっていたのだ。驚くティアにさらに追い討ちをかけるように、
 ビュウオォーーーン
 館が吼えているような風の音がロビーを埋め尽くす。それはまるで、この館が侵入者であるティアを追い出そうとしているようだった。
 勝手に閉じてしまった玄関、不気味な咆哮をあげるロビーに、ティアは、これ以上この場に居続けたら気が狂ってしまうと感じて、当ても無く適当に廊下を進み始めることにした。

 このとき階段を上がっていれば、と思うのはそれから半日後のことである。

「うわー。何なの、この長ーーい廊下は。外から見てこんなに長かったかしら?」
 廊下は続くよどこまでも……そんな歌があったとかなかったとか。
 とにかくこの廊下は長い。それは誰が見ても一目瞭然だった。なぜなら、
 先が真っ暗で見えないのだ。
 だが、光が無いわけではなかった。廊下には、カーテンが掛けられているが薄っすらと光を漏らす窓があり、窓と反対側の壁にはランプが時折、ゆらり、ゆらりと揺れながら燈っていた。それなのに、先が暗いとはどういうことなのか?
 先行き不安なティアは、窓際をただひたすらに歩いた。歩いて、歩いて、歩いた。そして、どれくらい経っただろうか。ようやく曲がり角にたどり着いた頃には、窓から漏れる光がうっすらオレンジ色をしていた。
「い、一体この館、どんな構造をしているの?これじゃあ、帰るに帰れないじゃない……」
 はぁ、とため息を吐いてから角を曲がった先には、また先が見えない漆黒の闇が広がっていた。再び現れた闇を見つめて、ティアはもう一度ため息を吐くのだった。
「入り口に戻るにはまた同じ道を戻らないといけないとなると、先へ進めばもしかしたら通用扉みたいなのがあるんじゃないかしら?これだけ広いんだから、それくらいあってもいいわよね。きっと」
 ティアは半ばやけを起こしながらも、いつまで続くかわからない暗く紅い廊下を進んでいった。
 だが、残念ながらティアの予想は外れた。そこにあったのは通用扉ではなく、二階へと通じる階段であった。しかもあれだけ長かった廊下はここで行き止まりになっている。したがってティアの行くべき道は唯一つ。この階段しかなかった。
「こんなことだったら最初にあの階段で二階に行っておけばよかったわ」
 階段の上、つまり二階を見上げてまたティアはため息が出る。もう何度目の光景だろうか、あまりに見慣れすぎて驚くよりも飽きがきてしまう。
 漆黒の闇。
「どうしてこの館はこんなに暗いのかしら?ひょっとしてここの主人は暗いところ好きなのかしら?いや、それともカーテンが閉まっていることからして、ただ単に留守なだけなのかも……」
 コツ、コツ、コツ……
 階段を上る足音だけしか聞こえない静寂の中、ティアはこの館の広さに対する、あまりの人気のなさに違和感を感じ始めていた。
 二階は一階と大差なく、廊下、壁はやはり紅く、そして視界の先には闇が広がっている。窓から漏れる光はすでにオレンジ色を失い、とうとう窓の外までが闇に覆われる頃になっていた。なんとティアはほぼ一日中この館を歩き回っていたことになる。ところが、一日かけてなお目的が果たせずにいた。
 昨日、自分を助けてくれた悪魔の少女に会ってお礼を言う。
 しかし、お礼を言うどころか会うことすらも出来ずに日が暮れてしまったので、今日はそろそろ帰るべきかと考え悩みながら歩くことしばし。ティアはとある扉の前で立ち止まった。いや、立ち止まらされた。
「うわぁ〜!なんて立派な扉なのかしら!いかにも館の主人がいそうな部屋って感じね」
 ティアはこの扉を見るまでに幾つもの扉を見てきたが、それらとは比べ物にならないくらいにただただ、立派だった。大きさは言うまでもない。扉には一輪の薔薇の彫刻が観音開きの扉の両側に彫られている。さらに、薔薇の周りには宝石を思わせる艶やかなひし形の錐が綺麗に並んでいた。
「ようやく辿り着いたようね。長かったわ」
 あの悪魔の少女がここにいるとはわかるはずがないのに、なぜか、ここにいる、そんな気がした。しかし、あの少女がこの館の主人であることまではさすがにわからない。とりあえず、誰かがいると信じてその豪華な扉をノックしてみた。
 コンコンコン……
「……」
 しかし、扉の向こうから返事が返って来ることはなかった。
(ちょっと小さくノックしすぎたかしら?)
 今度は少し強めにノックしてみた。
 コンッ、コンッ、コンッ……
「…………」
 返事は返ってこなかった。
(おかしいわね。やっぱりここのご主人は忙しい人で、留守がちなのかもしれないわ。それとも、ただ返事をする気がないだけで本当はいるのかも……)
 ティアは、最後にもう一度ノックしてみた。
 コン、コン、コン……
「……」
 どうやら留守のようだ。本当はいるのかもしれないが、ノックしている以上、勝手に開けて中を確かめるのは礼儀に反する。そう思い、一度辺りをぐるっと見回してみる。
「まいったわね……この館、本当は誰もいない廃墟だったようね……」
 確かにこれだけ長い時間この館にいたにもかかわらず、誰一人として出会うことも、見かけることもなかった。しかし、この足跡といい、最近生けられたであろう花瓶の花といい、誰かがいるような形跡があることは間違いないのだが。
 もう一度ぐるっと辺りを見回し、そしてこの豪華な扉を見つめてみる。まったく返事のない扉に向かって、ふぅ、とため息を吐き、廊下の先に見える暗闇の方向へ歩き出そうとした、まさにそのときだった。

 ガチャッ……!

 それは、扉が開いた音。
 それは、運命の歯車が動き出した音。
 そんな静寂を打ち破る音が、紅く、暗い廊下に響いた。ティアは突然開いた扉に驚き、そして振り返った。
「!!」
 振り向いた瞬間、扉から出てきた白く細い何かに腕をつかまれ、もの凄い力で扉の向こうへ引っ張られてしまった。その勢いのままごろごろと部屋の中を転がり、ようやく止まったときにはすでに身動きができなくなっていた。
「う、動けない」
 どうにかして起き上がろうともがいてみたが、よく見ると何かが自分のお腹の上に乗っている。しかし、それが何であるかを認識できるほどにこの部屋は明るくはなかった。目を凝らしてよくよく見てみると、窓から差し込む月の淡い白色光を浴びて、何かが纏うは白とピンク、そして、赤い紅。
 その何かからのびた細く白い、そう、月明かりに照らされた小さな『手』がありえない力でもってティアの喉を捉えた。
「う、ぐ!」
 ティアが苦しいうめきをあげると、上に乗っている何かは"声"を発した。
「人間。私の眠りを妨げるとは、いい度胸しているわね」
「! あ、あな、たは……」
 ティアは聞こえてきた声に目を見開いて驚いた。聞き違えるはずのない、幼い、かわいらしい声。昨日、妖怪に追いかけられていたときに突然現れ、妖怪を空の星々の一部にしてしまったあの"少女悪魔"の声だったのだ。
 ティアはそこで思考を巡らせてみる。
(私はこの少女の眠りを妨げた。つまりこの少女はこの部屋で眠っていた。この部屋は扉からしてきっとこの館の主人の部屋だろう。ということは……!!)
 ティアが頭の中で行き着いた答えを読み取ったのか、
「何をそんなに驚いている?」
 少女はニヤリと笑った。
「ふふっ、私がここにいることがそんなに意外だったかしら?」
 少女は、わさっ、わさっと黒く自分よりも大きな翼を動かし、ティアに宣言する。
「そう。私はここ、紅魔館の当主。レミリア・スカーレットよ」
「れ、れみ……」
 今のティアはそう答えるのが精一杯だった。レミリアと名乗る少女の力は、その幼い声や外見とは比べ物にならないくらいに強かった。しかし、どんどんティアの首を絞めつけることはせず、手に加えられた力は最初に掴んだときのままだった。レミリアはどうやらティアを殺すつもりはないようだ。
「ふふっ…… 何故、おまえはここに来た?」
 どこか、なぜか、レミリアは楽しそうにティアに話しかける。
「昨日、ああやって玄関先に放っておいてやったっていうのに……」
 あぁ、やっぱりそうだったのか、と、ティアはあの時の自分は間違っていなかったのだと思った。
「あれは二度と来るな、この館に入ってくるなという警告だったのよ?なのに、こうしておまえは再びやって来て、そして中に入ってきた。挙句、この有様。一体、何が目的なの?」
「う、ぐっ、う……」
 当然ティアは首を絞めつけられているので、話せるはずがない。だが、レミリアはティアの答えを聞く気があるのか、更に質問を続けた。
「もしかして、おまえはハンターか?いや、こんな間抜けなハンターなどいないか。いとも簡単に私に捕まってしまうのだから。それに、匂いもしない。おまえは一体何なんだ?」
 ティアは何とか自由だった手を使って、自分の首を絞めているレミリアの手をペシペシと叩いた。こんな状態で話せるわけないでしょ、と。
「あら、それもそうね」
 レミリアはそう呟いてティアの首から手を離した。
「げほっ、げほっ!」
 途端にティアは思いっきりむせ返った。涙目になりながら、先ほどまで絞めつけられていた首をさする。ついでに上に乗っているレミリアも叩いて退かせようかと考えたが、また首を絞められては困るのでやめておいた。まだ息が整わないが、ティアはレミリアの質問に答えることにした。
「わ、わたしは、げほっ、クウィン、ティア・エルディーネ。げほっ、ここへ来たのは、ただあなたにお礼が言いたかっ、げほっ、ただけよ」
「何?お礼だって?」
 レミリアはティアの答えを聞いてきょとんとしてしまった。人間がわざわざお礼を言うためだけに、こんな館に足を踏み入れるとは思っていなかったからだ。
「そうよ。お礼。昨日、わたしはあなたに助けてもらわなければ、最後はあの妖怪にやられていたでしょうから」
 ティアは先程のむせ返りで出ていた涙を拭い、笑顔で、改めて礼を言った。
「ありがとう。レミリアさん」
「ふ、ふふっ、あははは…… ありがとう、ですって?」
 レミリアはバサッと翼を広げてティアの上から飛び退くと、近くにあった椅子に腰掛けた。ティアを見下ろしながら足を組み、テーブルに肘をついた。
「この私に、ありがとう、だなんて。ふふ、畏怖されるべき存在である私も堕ちたものね」
 レミリアの自分への嘲笑にも似た嘆きを聞きながら、ティアはようやく体を起こした。スカートをパタパタと払ってから嘆き中のレミリアにそっと近づいていった。
「あの、レミリアさん」
「何よ?もう用は済んだのでしょう?殺されたくなければとっとと帰りなさい。私の気が変わらないうちに」
 レミリアは椅子から立ち上がって窓の方へと歩き始めた。窓から差し込む月明かりを受けながら、翼をバサバサと動かして追い払う仕草をした。
(どうしてかしら?吸血鬼である私がこんな人間をわざわざ追い返そうとしているなんて)
 レミリアがそう思っているとは一切知らず、ティアは自分がここへ来るまでに考えていたことを話し始めた。
「本当にありがとう。まさしく命を救ってもらったと言っても過言ではないと思うの。そこで、あなたに言葉ではなくて、何か別の形でお礼をしたいと思うんだけど。ダメかしら?」
「……ハァ?」
 レミリアは自分の耳を疑った。
(人間なんかに礼をしてもらう?この私が?ありえないわ)
「ふん、おまえにこれ以上礼をしてもらう必要など無い。さぁ、この部屋から、紅魔館から出て行くのよ」
「でも、それではわたしの気が治まらないわ」
 ティアは部屋を見回してみるが、特に何かが欠けているわけでもないし、部屋の物は皆綺麗に整理されている。
 でも、何かが足りない気がした。
「ふぅ、困った人間もいたものね。ただでさえ私を恐れないのだもの……」
 レミリアは、どうしたものか、と思いながらティアの方へと向き直ったときだった。
「!」
 ティアの姿に重なるように、もう一人のティアが現れ、そして消えていった。幻を見たかのような表情を見せるレミリアは、一瞬の思考の後、その幻が示す意味を悟った。
(あ、そうなのか、そうだったのね)
 レミリアは大きな翼を2、3度羽ばたかせると、両手を広げて何か良い事を思いついたかのような笑顔を作った。
「わかったわ。おまえの礼とやら、受け取らせてもらおうじゃない」
 ティアはレミリアの返事に笑顔で応えた。
「何でも言ってちょうだい。わたしにできることなら何でも」
「ふふっ、最初からこうすればよかったのよね」
「?」
「私は……おまえをいただくわ」
「? わたしをいただくって、どういうこと……?」
 ティアは、ニヤリと笑うレミリアが何を考えているのかさっぱりわからなかった。ゆえに、レミリアにはそのままを鸚鵡返しのごとく聞き返してしまった。自分をいただく?どういうつもりなのか?
「ふふっ、わからない?その言葉どおりよ。私はおまえの『命』をいただくわ」
「!! い、命……! あなたは、一体……」
「ふふっ」
 ありえない一言を聞いたティアは後ろに下がろうとして何かに足を引っ掛けてしまい、尻餅をつくようにしてその場に座り込んでしまった。
 確かにレミリアに命を救ってもらったことは間違いないのだが、命を救ってもらった相手に命を奪われるとは、なんと滑稽なことだろう。自分で言い出したことだったが、内容が内容だけに、自分への後悔の念が押し寄せてきた。
 ティアは逃げようとしてもまったく腰を上げることができなかった。さらに、レミリアの紅い瞳が妖しく光り、近づいてくるレミリアをただ見つめることしかできなかった。
「こんなに若い娘の血は、いつ振りかしら……」
 レミリアは、ゆっくりとティアに近づいていく。背中の翼を時折バサッと動かしながら近づく。その瞳はさらに紅く、ティアを一点に見つめながら近づく。表情は、笑っていた。その口から覗くのは鋭く尖った白い歯。舌なめずりする姿は、まるでご馳走を目の前にした子供のようだった。
 ティアは近づいてくるレミリアを見て今更ながらに気付いた。レミリアが一体何者なのかを。
(あぁ、そうか。この娘は吸血鬼だったのね。どうりでこの館が紅いわけだわ。血のような紅さって感じたのは間違いではなかったってわけか。はは、私、血を吸い尽くされちゃうのね……)
 ティアとレミリアの距離はあと数歩まで近づいていた。ティアはレミリアが一歩、一歩と近づいてくるにしたがって、自分の死が近づいてくるように感じていた。目からは涙が自然と溢れていた。
 あと3歩。
(来ないで!)
 あと2歩。
(いや!死にたくない!)
 あと1歩……
(助け……て)
 レミリアはしゃがみ込み、そっとティアにその小さな体をあずけた。そのまま小さな顔をティアの顔に近づける。ティアの恐怖に引きつった顔をジッと笑顔で眺めた。
「優しくしてあげられないだろうけれど。ふふっ」
 そのまま顔と顔は触れ合うことはなかった。触れ合ったのは小さな顔と、細い首筋。
「うっ、あぁっ」
 ほのかに香るは花の匂いでもなく、風の匂いでもない。香るはまさに血の匂い。レミリアの顔が自分の顔の横を通り過ぎたとき、ティアは確かにそんな匂いを感じた。
 その後に訪れたのは、温かさの往来。レミリアと触れ合ういろいろなところから彼女の温もりが伝わってくる。そして、自分の首筋からは確かな温かさが逃げていく。温かさとともに力も抜けていくのを感じたティアは、やがてレミリアを支えることができずにそのままレミリアに押し倒されるように崩れた。
 レミリアはなかなかティアから離れようとしなかった。余程血に飢えていたのか、コクコクとレミリアの喉が鳴る。それはまるでティアの命の鼓動を吸い取っているかのような音であった。
「んっ、かはっ、あっ」
 ティアが何度目かの呻きを上げたときだった。レミリアはようやくその真っ赤に染まった口をティアの首から離した。口の周りだけでなく、着ている洋服までもがティアの血で染まっていた。手首で口の周りを拭うレミリアの表情には、満足という二文字が浮かび上がっているような笑顔があった。一方、ティアの首筋には二つの確かな穴が開いていた。そこからは、まだ吸って欲しいと言わんばかりに、赤い液体がとくとくと湧き出てきていた。
 ティアはぼうっと天井を見つめ、泣いていた。
「どう?私に血を吸われた感想は」
「い、嫌に、決まっている、じゃない」
 まだ起き上がることができないティアは、片方の手を首筋に、もう片方の手を顔に当てて、どちらからも流れ出てくる液体を必死で止めようとしていた。そのときティアの頬に温かい何かが触れて、そっと、やさしく撫でていった。それは、レミリアがティアの涙を拭っていたのだった。
「これから私、レミリア・スカーレットのしもべとなるものに、涙はいらないわ」
「しも、べ……?」
「そうよ。おまえはしもべ」
 レミリアはゆっくりとティアの上から退くと、おもむろに椅子に腰掛けた。まだ物足りないのか、口の周りを指で拭ってはペロリと舐めていた。
起き上がれずに床に寝ていたティアは、ふらつきながらも何とか起き上がった。しかし、さすがに多量の血を吸われたこともあって、立ち上がったときには強烈な立ちくらみに襲われた。しばらく身動き一つできなかったが、どうしても聞きたいことがあったので、何とかしてそれを言葉にしてみる。
「私は、あなたに血を吸われた。私は一体、どうなるの?」
 レミリアはふらつくティアを面白そうに眺めながら答えた。
「ふふっ…… 最初はおまえを吸血鬼にしてやろうと思っていたの。でも私にはおまえの運命が見えた。そしてそんな数奇な運命を持った人間であるおまえにいささかなれど興味を持った。だから、血を吸うだけに止めておいてやったわ。だから、おまえの体には何も起こらない」
 ティアは心底安心した。すでに普通の人間でいられなくなったティアにとって、自分に赤い血が流れていることが、まだ人間だと思わせてくれる、蜘蛛の糸であった。その血が吸血鬼の血に変わることはどうしても耐えることができなかった。
「そう……安心したわ。私はまだ人間なのね」
「あら、いつでも私の仲間になれるのよ?それだけは忘れないでよね」
「ふふ。どうやら私は平和にのんびりと生きられる運命ではないようね……」
 ティアはどうして自分の周りでは穏やかに時が進まないのかと自分の運命を恨めしく思った。
 街での男性消失に始まり、魔女狩り、森での隠遁生活、突然の環境変異、そして吸血鬼との出会い。
 思い出した内容だけでも、一般人が遭遇するであろう出来事をはるかに凌いでいることは容易にわかった。
 落胆の表情を浮かべるティアを見ていたレミリアは椅子から立ち上がり、ティアに先ほどの契約の返事を誓わせる。
「それで、おまえの誓いを聞きたい。どうする?人間として私のしもべとなるか、それともそれだけ執着している人間であるということを捨てるか」
 半ば強制ではないか、と思ったが、レミリアの吸血に対するティアの答えはすでに決まっていた。。
「ふふっ、わかったわ。こんなにかわいくて優しい吸血鬼に出会えるなんて、私も大した運命を背負ったものだわ。ま、運命を呪うより、そうなる運命を楽しんでやろうじゃないの」
「決まりね。一生を懸けて、私に仕えるのよ」
 レミリアはティアに近づき、すっと自分の手の甲を軽く切り裂いた。そこからじわっと流れるのはティアと同じ色をした赤い血。その血が湧き出る手をそっとティアに近づけた。
「精々、あなたに殺されないよう努力しますわ。レミリアお嬢様」
 そう言ってティアは差し出されたレミリアの手を取り、誓いを立てる。
「言ってくれるわね、しもべのくせに……」
 こうしてレミリアとティアの血の契約が成立した。ここに紅魔館の新たな住人、クウィンティア・エルディーネが誕生したのである。

  …………

 ここは現代。紅魔館の地下にある大図書館である。

「なるほど。先代はそうやってお嬢様との誓いを立てられたのですね……」
 ティアとレミリアとの契約の部分を読み終えた咲夜は、ティアが自分とは異なる契約方法でレミリアの従者になっていたことにかなり関心を抱いていた。
「何?その『先代』って」
 分厚い本に顔を埋めていたパチュリーは、咲夜の発したおかしな一言に耳を疑った。
「えっ?これまでこの紅魔館にはたった一人しか従者がいなかったんですよね?ならば、このティア様は私の先代ですわ」
「しかも、ティア様って……」
 パチュリーは、咲夜がどうやらティアに心酔しかかっているような気がしていた。最後を知っているだけに、この咲夜の様子にすこし危機感も抱いていた。
(最後を知ったときにおかしな行動に出なければいいのだけれど。まぁ、咲夜のことだから大丈夫でしょう、きっと。たぶん)

 紅魔館日記に書かれている最後。それは咲夜にとっては従者の究極のあり方でもあった。しかし、その後どうなったかを本当に知っているのは、レミリアとティア、そしてもう一人しかいない。

  第二章 契約 終わり




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